58. 「感染差別」の防波堤になろう

北海道のCOVID-19の実効再生産数は着実に下がってきているが、札幌以外の地域では感染症の広がりは終息に向かう様子はあまりなく、むしろ広がっている印象すらある。

このような状況で、感染症自体との戦いと同等かそれ以上に難しいのが、罹患者やその家族、そして関係者に対する差別や偏見、いわゆる「感染差別」だ。この問題の難しさは、差別をしている人ほど差別をしているという意識は希薄だというところにある。むしろ一種の「正義感」が背景にあることもまれではない。

差別は罹患者や家族に対する誹謗中傷といった、比較的目に見える形の場合もあれば、本来は避ける必要のないことを避ける、必要以上に対象を限定する、安全に出来るはずの協力を拒む、といったもっとソフトな形で現れることもある。そしてそこには「感染予防」というもっともらしい理由がつけ加えられることが多い。病院勤務の看護師の子どもが保育園の通園を控えてほしいといわれた、通院先でコロナが出たというニュースのために(本人は接触や罹患の可能性がないのに)障がいのある人がその後の通所を拒否された、などというニュースやSNS上の投稿、そして私自身が直接に見聞きをすることは残念ながら決して少なくない。

確かに感染の拡大を防ぐことは重要だ。しかしそれは漠然と「不安だから」避ける、ということではなく、一定の根拠に基づいて十分な結果が期待できる方法による必要がある。コントロールされていない不安に駆られてやみくもにすべてを制限することは、十分な予防効果をもたらさないだけでなく、人々の否定的な感情を増殖させてしまい、この状況を一層困難にしてしまう。

「感染差別」の背景にあるのは、不十分あるいは不正確な知識と情報、そこから来る強い不安だ。私たちがが「感染差別」を防ごうとするとき、カギになるのはできるだけ正確な情報を私たち自身が持つこと、過剰にならないようコントロールしながらできるだけたくさんの人に伝えられるようにすること、そしてすべての人が完璧な知識を持つことを期待するのではないにしても、出来る限り多くの人たちに「感染差別」を防ぐ防波堤になってもらうことなのだろうと思う。私自身もそのために自分にできることは何なのか、日々考え続けている。

この時期、私自身も自分が「感染差別」をしてしまいそうな場面を経験し、すんでのところで気づくという経験を何度もしている。おそらく気づかないところでしてしまっていることもあるだろう。

だからこそ、私たちは自分が無意識のうちに「感染差別」を行っていないか、身近にある「感染差別」に見て見ぬふりをしていないか、意識して振り返ることが必要なのだろうと思う。そして「感染差別」を防ぐ防波堤になってくれる仲間を、日々しっかり増やしていきたい。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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