32. エビデンスとの付き合い方

現代の医療は”evidence-based medicine”(根拠のある医療)といって、個人的な経験則や根拠の薄い慣例的な医療行為をできる限り排し、科学的根拠(エビデンス)に基づいた医療を目指す方向になってきています。ですから、診断や治療について議論する際に、個人的な主観だけで物事を語ることはまずありません。たいていは、一定の水準を満たした学術雑誌にどういった研究や症例報告があるのか、国際的なスタンダードとしてどのような考え方がどのような根拠に基づいてなされているのか、国際標準として通用している教科書にはどう記載されているのか、なぜそう記載されているのか、などといった点をふまえて議論することになります。

このような考え方には一定の意味があります。たとえば、私が医師として出発した頃は、救急現場へ心肺停止状態の人が搬送されてくると、とりあえず良さそうなことは全部やるというのが一般的でした。ところが、その後救急処置について科学的な研究が積み重ねられ、良さそうだと思われていた治療の中には特定のタイミングで行わなければ効果を発揮しないものがあったり、中にはかえって救命率を下げるようなものもあることがわかってきたのです。ですから現在は、心肺停止状態で到着した人に対して、どのような治療行為をどのような手順で行うのか、かなり厳密に決められるようになりました。言い換えれば、「良さそうなことはとりあえず何でもする」治療から「必要なことを適切なタイミングで必要なだけする」治療へと変化したのです。それだけでなく、病院に到着する以前の、できる限り速やかな救命処置開始の重要性が強調されるようになり、市民向けの一次救命講習や街中のAED(自動体外式除細動器)設置が普及するようになりました。それによって救命率には格段の向上が見られるようになったのです。

このように、エビデンスを正確に理解し正しく活用した治療は、「何となくよさそう」という治療とは一線を画した成果を得ることができるものです。そして、担当者によるばらつきを最小限にし治療の質を高い水準で一定に保ちながら、医療資源(人、時間、コストなど)の浪費を防ぐという効果も期待できるものです。もはやエビデンスを無視して自分の感覚や思いだけで医療を語ることはできなくなっているといってもいいでしょう。

ところが、エビデンスが声高に叫ばれるなか、それを正しく理解し、実際の状況に当てはめることはそれほど簡単ではありません。いくつかのパターンに分けて、具体的な例えで考えてみましょう。

1. 現実の状況はそれほど単純でないことが多い
ある疾患Aの治療に薬Xが有効であるというエビデンスがあったとしましょう。このような治療研究では、疾患Aと薬Xの関係を純粋に見るために、ほかの疾患を持っていなかったり、ほかの薬剤を服用していない特定の年齢層の人(たいていは成人)を対象にしてデータが出されていることがほとんどです。さて、今、もう一つの薬Yについても疾患Aに効果があるというエビデンスがあるとしましょう。このような場合、疾患Aに罹患している人がすでに薬Yを服用しているということはよくある状況です。そして薬Yだけで十分な治療効果が得られていない場合には、薬Xを重複して使用したくなるかもしれません。しかし、薬Xと薬Yには独立したエビデンスはあっても、重複して投与することに意味がある、というエビデンスはないかもしれません。さらに薬Zも服用している場合はどうなのか、疾患Bを合併している場合にはどうなのか、子どもだったら、あるいは高齢者だったらどうなのか・・・現実の場面は限りなく複雑になっていきます。一つ一つの状況すべてにエビデンスを求めることは到底不可能です。

2. データは正しくても解釈や結論が誤っていることがある
エビデンス自体は単なるデータの集まりであり、そこから何らかの結論を引き出すためには一定の解釈や推論が必要になります。データがいかに正確でも、その解釈や推論に誤りがあれば、結局は誤った結論になります。有名な例として、海水浴中の溺死の数とアイスクリームの売り上げについて考えてみましょう。この二つの変数の間には高い相関関係がありますが、これをとても単純に解釈して海水浴場でのアイスクリームの販売を制限しても、おそらく溺死の数は減らないでしょう。この二つの間には相関関係はあっても因果関係はないからです。海水浴中の溺死が増えるのは気温が高くなって海水浴をする人が増えるからであって、気温が高くなればアイスクリームの売り上げもやはり増えます。だから、この二つの変数だけを観察すれば相関関係が認められるのですが、その関係を正しく知るためには気温というもう一つの変数について知らなければならないわけです。溺死とアイスクリームはとてもわかりやすい例なので、これを間違える人はあまりいないでしょうが、一見因果関係に見えるような相関関係には特に注意が必要です。実際、相関関係を単純に因果関係として説明しているような危うい研究もしばしば見かけます。

3. 偶然の結果かもしれない
論文を読むと、よくp<0.05という不等式が出てきます。これは、観察された状態が偶然に生じる確率は5%未満であるということを意味していて、だからこれは偶然ではない、という結論にするわけです。たとえば、ある疾患について食べ物Aが原因ではないかと考えたとします。罹患者のグループと非罹患者のグループの食事を調べたところ、罹患群では食べ物Aを摂取している人が非罹患群よりも多く観察され、その差が偶然に生じたものである確率が4%と計算されれば、食べ物Aがこの疾患の原因である可能性が高いと考えます。多くの場合は確かにそうなのですが、この解釈には落とし穴があります。この差が偶然に生じる確率が4%あるということは、同じ研究が100回行われると関係があるように見える結果は単純にいって4回得られる(期待値は4回である)ことになります。この研究結果がすべて発表されれば問題ないのですが、往々にして関係がなかったという研究は発表されにくく、関係があったという研究は発表されやすい傾向があります。だから、とても意地悪な見方をすれば、それが偶然であったとしても4本の「この疾患の原因は食べ物Aである」という論文が生まれ、そのほかの96の研究は闇に葬られてしまうかもしれないわけです。世界中で、成果を出したいと思っている膨大な数の研究者が、その研究者生命をかけてしのぎを削っています。そのような状況の中、次々に発表されつづける莫大な論文の中に偶然の結果が紛れ込んでいるということは十分にあり得ることです。実際、華々しく登場した最初の「エビデンス」が、その後の研究によって否定されることは決してまれではありません。

4. 「役立つことが期待される」ことと実際に役に立つことの間にはかなりのギャップがある
ある疾患において、罹患群と非罹患群で検査Xの結果に明らかな差が観察されたとします。このようなときにはよく「新しい診断方法への応用が期待される」という考察がなされたりします。ところが、実際には有意差があるということを持って「検査Xが診断の役に立つ」とはいえないことがよくあるのです。例として、日本人とイギリス人の身長を取り上げましょう。日本人とイギリス人の身長を100人ずつ調べたら、平均値にはおそらく統計的に有意な差が観察されるでしょう。1000人ずつ調べれば、さらに差は明確になります。ところが、明らかな差があるはずの身長を日本人とイギリス人を区別するための指標として使おうとすると、おそらく非常に精度の悪い方法になります。なぜなら、平均値に有意差はあっても、日本人とイギリス人の身長には一定のオーバーラップがあるからです。身長180 cmの男性はイギリス人の方が多いでしょうが、日本人にもいます。身長165 cmになれば日本人の方が多いでしょうが、イギリス人にも一定の割合でいるのです。だから、「日本人とイギリス人では身長に明らかな差がある」ことを示すエビデンスがあったとしても、それは「身長は日本人とイギリス人を区別するためのよい指標である」ということを必ずしも意味しないのです。もちろん、身長にそのほかの指標(髪の毛の色や一日に飲む紅茶の量など)を組み合わせることで、かなり精度よく区別が可能になる可能性もありますから、身長を鑑別の指標として全く捨て去る必要はありません。しかし、画期的な方法が発見されたという短絡的な判断には慎重であるべきです。

5. 集団として正しいことが個人のレベルでも正しいとは限らない
子どもの食生活を調査したところ、食物Aを習慣的に摂取しているグループの方が摂取していないグループよりも運動能力が高いというデータが得られ、その間には因果関係がある可能性が高いとします。この場合には、多くの子どもに食物Aの摂取を推奨することはエビデンスに基づいた適切な対応になるでしょう。しかし、その一方で「すべての」子どもにあてはめることには慎重であるべきかもしれません。食物Aに対してアレルギーのある子どもがいるかもしれません。食物Aの摂取が宗教上、生活習慣上、あるいはほかの何らかの理由で望ましくない子どもに食物Aの摂取を強要することは、運動能力以外の面に大きな問題を引き起こす可能性もあります。多くの人にとって利益があるというエビデンスがあっても特定の個人には必ずしも勧められないことや、一般的には不適切というエビデンスがあることでも人や状況によっては必要ということも十分にあり得るのです。

ここまで長々と「エビデンス」の落とし穴を指摘してきました。これらはほんの一例であって、留意すべき点はまだまだあります。もちろん、エビデンス自体は非常に重要な医療の基礎であり、現代の医療を考えるときに真っ先に考慮されるべきものです。エビデンスの蓄積なくしては医療の進歩や改善もあり得ません。しかしその一方で、その現実への応用はそれほど単純なものではないことを理解する必要もあるのです。

では、私たちはエビデンスとどのように付き合っていけばいいのでしょうか。

もっとも大切なことは、エビデンスを盲信することなく、かといって無視するのでもなく、まずは正しく知ることです。それは、常にエビデンスの重要性を認識しながら、同時にその背景や限界を知り、短絡的な結論に対しては慎重でいることでもあります。この二つは決して矛盾するものではありません。誠実さを持って正しく知ろうとすればするほど現実の人間の複雑さに直面することになり、必ずやそこに畏敬の念を抱くようになる。少なくとも私はそう信じています。

そうはいっても、一部の専門家を除けば自分の力だけでエビデンスを正確に理解することのできる人はほとんどいないでしょう。ですから、エビデンスには、それを理解したうえで、わかりやすい言葉にして説明できる人が必要なのです。専門家は、自分の専門領域についてどのようなエビデンスが蓄積されてきているのかに常に敏感でいると同時に、それを一般の方々にわかりやすく、公平な立場から解説する義務を負っているともいえます。そして、エビデンスをどんな人に対しても一律に、紋切り型に当てはめるのではなく、エビデンスと個人との関係を冷静に見つめ、エビデンスを生かしながらも「その人」自身を理解し一人ひとりに合った医療を提供していくことが、結局はエビデンスに基づく医療の行き着くべき先なのだと思います。

私自身も一人のプロフェッショナルとして、エビデンスを学び、それを自分の臨床に生かしていくと同時に、多くの方々にできるかぎりわかりやすくお伝えしていく努力を続けていきたいと思っています。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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