発達診療をしていると、自分が深く考えて来なかったことに気づかされ、考えさせられることがよくあります。その一つは、「人権」です。
私も、人権という言葉については中学校や高校でも教わりましたし、非常に身近で日常的な概念として理解しているつもりでした。ところがある日、自分の人権に対する理解が表面的なものだったことに気づかされる出来事がありました。
それは、私の外来で、特別支援学校に通っているお子さんの相談をお受けしていた時のことです。問題になっていたのは、いじめでした。そのお子さんが近所の公園に遊びに行くと、そこで遊んでいる小学生に、必ずといっていいほどからかわれたり追い回されたりするのです。お母さんが一緒にいれば目の前ではしないのですが、お母さんが目を離していると、その隙に何かを仕掛けてきます。当然許されない卑怯な行為です。
私は、困った小学生だなと思いつつも、嫌な思いをしてまで公園に行く必要はないのではないかと思い、お母さんに「お母さんがついていけない時には、公園に行くのをやめてはいかがですか?」とお伝えしました。お母さんは、ちょっとびっくりしたような表情で私の顔を見つめたかと思うと、次の瞬間、見る見るうちに涙目になり、絞り出すような声で「やっぱり、私たちが譲るしかないんですね…」とおっしゃったのです。
私は、はっとしました。その親子は、他の人たちにとっては「あたりまえのこと」を今までずっと諦め、譲ってきていたのです。だから、この場合に問題だったのは、ささやかではあっても当たり前のことを当たり前に、安全に、安心してできるということ、言葉を換えれば、基本的人権にかかわることだったのです。そして、私はそのことにあまりにも無頓着でした。お母さんはそれ以上何も言いませんでしたが、ずっと自分たちの味方だと思っていた私が発した言葉に、驚き、落胆し、裏切られたと感じたことは、想像に難くありません。
そのことがあってから、私は、相談をお受けするときには、人権という観点を意識するようになりました。大多数の人たちにとっては「当たり前」のことをきちんと保証しているか?譲ったり、諦めたり、ということだけで解決しようとしていないか?その人たちの権利を守るために、自分にできることは何か?
いじめの相談を受けるときには、私はただアドバイスしたりコメントしたりするだけでなく、必ず自分にできることを提案させていただくようになりました。たとえば、学校に連絡させていただき先生方と解決策について話し合う、といったことです。保護者の方がご自身の子どもや相手のお子さんについて実名での相談を希望されることもありますし、いずれか、または両方を伏せての相談を希望される場合もあります。
ただし、いじめを行っているお子さんの側にも何らかの事情があるかもしれません。単に相手を特定して叱責してもらう、という対応では、かえって状況を悪化させてしまう可能性もあります。ですから、正義の味方然として「悪者」を告発するというよりも、むしろ一人ひとりの子どもを大切にする学校文化を育ててもらうことや、人権教育の延長線上で学校全体としていじめを防ぐ取り組みを行ってもらえるようにお伝えすることが多いです。また、一方的に要求を突きつけるというよりも、私が学校に協力できることがあれば積極的に提案させていただいたり、同じ方向から一緒に問題を解決していこうという姿勢をお伝えするように心がけています。以前は、私が連絡すると学校側がとても警戒して拒否的な態度を取ることもありましたが、いじめの問題が学校の主要な課題の一つとして認識されるようになってからは、ずいぶんと前向きで積極的な対応をしていただけることが多くなってきた印象もあります。
ささやかではあっても当たり前の権利を守ること。これからもそのことを折に触れて意識しつつ診療を行っていきたいと思っています。