24. 私の中の震災

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また、3月11日がやってきます。

宮城県出身の私にとって、この日はとても特別な日です。忘れもしない2011年3月11日金曜日14時46分。私は普通どおりに診療をしていました。函館を突然襲った揺れ。時間の長い不気味なほどゆっくりとした横揺れに、私はその瞬間、「これは離れたところでかなり大きな地震があったな」と直感しました。職場にはほとんど被害らしい被害はなかったことから、一抹の不安を抱えながらも診療を続行していたのですが、そのうちに「東北でかなり大きな地震があったらしい」「函館にも津波が来るらしい」といった情報が入るようになりました。平静を装い診療をすべて終えた後、その日夜に入っていた予定をすべてキャンセルして急いで自宅に帰りました。

自宅に帰り着くと、妻が青ざめた顔でテレビの前に座っていました。見慣れた名取の海岸や、よく訪れた仙台空港に押し寄せる、見たこともないような大津波。そして、炎に包まれる仙台や気仙沼の町並み。私は、呆然としたままテレビの前から動くことができませんでした。もちろん実家の両親とも、仙台で暮らしている妹夫婦とも、連絡が取れないままでした。

一夜明け、翌日も通常通り診療がありました。私は、朝の打ち合わせで職員に伝えました。「私たちにできることは、まず、この地域の日常を守ることだ。出来る限り普通どおり、自分たちにできることを続けよう」と。しかし、そう言いながら一番動揺していたのは私でした。日中は診療があるので、むしろ気が紛れます。夜になると、パソコンにかじりついてツイッターを頼りに故郷の情報を探しました。眠ることすらままなりません。横になると揺れを感じたような気がしてビクッとして目覚めてしまい、飛び起きてテレビをつけては気のせいだったことを確認してまた横になることの繰り返しでした。

そうこうしているうちに、地元の情報もかなり入ってくるようになりました。同級生、先輩、後輩たちが地元で奮闘している様子も伝わってきました。遠く離れた自分にはなすすべもなく、ただ、彼らに託すしかありません。祈るような気持ちでした。東北に次々に医療援助隊が入るようになると、私はすべてを投げうって東北に向かいたい衝動に駆られました。でも、私の外来は何カ月も先まですでに予約でいっぱいです。私は、何度も何度も「自分がすべきことは、この地域の日常を守ることだ」と自分に言い聞かせました。

震災から5日目の3月15日火曜日。両親から、続いて妹から連絡が入りました。家族はみな無事でした。私は、安堵しました。

しかし、それと同時に、今までとは違った感情が私を襲いました。私は家族のためにも、故郷の東北のためにも何一つすることができず、遠く離れた安全な地でぬくぬくと過ごしていたのです。私は無力感を覚え、それと同時に、東北を離れ北海道で生活している自分を、何か裏切り者のように感じました。職場にも東北への支援の要請が来ましたが、私はそれに参加することすらできませんでした。

震災から4年になります。この4年間、ちょっぴりの寄付をしたほかには、私は結局故郷のためには何もすることができませんでした。今考えても、私にはこの地域の日常を守るという選択肢しかなかったと思います。でも、おそらくこの「自分が何も役に立つことができなかった」という感情は、少しずつやわらぐことはあっても、私の気持ちのどこかに居座り続けることになるのでしょう。

ただ、後ろを振り返っても、何も戻って来ないことだけは確かです。今はもう一度前を向いて、一人の職業人として、そして一人の東北人として、自分にできることを考え、地道に取り組んでいきたいと思っています。

(写真は、震災後の2012年1月1日、実家近くの神社に向かう私の両親)

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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