3. 自閉症を診断するということ ~2年間の海外生活を振り返って~

私は医師として発達診療にかかわっているわけですが、この仕事に携わるようになってすぐにつまずいたのが、自閉症を診断するということ、そしてその診断を保護者の方に伝えるということでした。それが、当時勤めていた病院を辞め海外へ勉強に行くという無謀な選択をした理由のかなり大きな部分を占めていました。

たまたま、2014年5月にこの経験について話す機会があり、そのことをまとめた記事をフェイスブックに投稿していました。これは私の診療の原点の一つといえるものなので、今日はこの記事を引用したいと思います。

<自閉症を診断するということ ~2年間の海外生活を振り返って~>

5月29日~31日まで、浜松で行われた日本小児神経学会に参加した。普段、学会発表はほとんどしないのだが、今回はとてもお世話になっている先生から「海外研究留学への道」というセッションで話をしてくれ、と頼まれたので、引き受けることにしたのだ。初めは、私は「研究」をしに行ったわけではないので…と丁重にお断りしたのだが、海外で勉強したことを帰国後も仕事に生かせているレアケースということで、結局はお受けすることになった。

その話をするにあたって過去の資料などを見返すことになり、私の診療の原点について考えるよい機会になったので、まとめておきたいと思う。

私が海外で勉強しようと思ったきっかけは、あまり恰好のいいものではない。私は、1998年に東京小児療育病院で働くようになったのだが、外来を担当するようになると、すぐに行き詰まってしまった。それは、自閉症の子どもたちが受診するようになったからだった。とにかく診断をすることが辛かった。診断を保護者の方にお伝えした日は、夕方のニュースが気になって仕方がない。中央線で飛び込み事故があった、などというニュースがあろうものなら、午前中に私が診断を伝えた親子ではないか、とテレビの画面にくぎ付けになってしまう。本当に申し訳ないことだが、当時の私はあまりにも未熟で、診断を伝えるということは一生の不幸を宣告することと同じだったのだ。運よくその親子がその後も診察に通ってくれるようになっても、結局は自分では何もできず、無力感にさいなまされるばかりだった。

そんなある日、私の様子を見かねた施設長が海外で勉強することを提案してくださり、私はその話に一も二もなく飛びついた。施設長は、病院に籍を置いたまま半年ぐらい行ってきなさい、というおつもりだったのだと思うが、私は語学力の問題や勉強すべきことを考えると2年は必要だろうと思い、施設長が止めるのも聞かずに病院を辞め、収入も身分保証もないまま、ただ研修生として籍を置かせてくれるという約束だけを頼りに日本を離れたのだった。2002年9月、私が37歳の時のことだ。

初めに行ったのはロンドンだった。ある方にお世話をいただき、セント・ジョージ病院の敷地内にある児童精神科クリニックで見学研修させてもらうことができたのだ。セント・ジョージ病院はロンドンでも指折りの歴史のある病院の一つで、私の直属のボスは脆弱X症候群の臨床研究で有名なジェレミー・ターク先生だったし、当時はクリストファー・ギルバーグ先生やパトリシア・ハウリン先生なども活躍されていた。その他に、ローナ・ウィング先生がいらっしゃった英国自閉症協会のエリオット・ハウスにもちょくちょくおじゃましたり、教育や福祉関係機関で研修させてもらったりした。とにかく見るもの、聞くものがすべてハイレベルで、私にとっては驚くようなことばかりだった。

翌年にはアメリカに渡り、ノースカロライナ大学のTEACCH部で勉強した。ほとんどが見学だけだった英国とは打って変わって、私が籍を置いたフェイエットヴィルTEACCHセンターでは、実際に検査の一部を担当させてもらったり、レポートの作成に参加させていただいたりした。その他にもPECSやADOS-Gの研修など、あっという間の充実した1年間だった。エリック・ショプラー先生、ゲーリー・メジボフ先生など日本にいるときには雲の上の存在だった先生方から直接教えていただいたこともうれしかったが、フェイエットヴィルTEACCHセンターの所長だったスティーブ・クルーパ先生の指導を受けることができ、今でも私たち夫婦がクルーパ夫妻と親しい友人としてお付き合いさせていただいていることは一生の財産だと思う。

イギリスでもアメリカでも、支援に直結する診断や評価のあり方、一人ひとりに対してきめ細かいサービスを提供する仕組みなど、日本にはなかったものを学ぶことができ、そのような経験を通じて、私の中では自閉症を診断するということの意味が少しずつ整理でき始めた。診断とは、障害の有無やその名前を知り、それを伝えるという単純な行為ではない。それは、生涯にわたって続く、「その人自身を(自分自身を)よりよく理解する」というプロセスの一部なのだ。だからこそ、イギリスでもアメリカでも診断には十分に時間をかける。その一日が、保護者にとって、あるいはご本人にとって、そして私たち支援者自身にとっても、その人自身をよりよく理解するためのプロセスとして位置づけられているからなのだ。その意味では、診断名とはその人自身をよりよく理解するための一つの切り口と言ってもよい。

こうやって多くのことを学んだ2年間だったが、すべてがプラスの経験だったというわけではない。特に私が衝撃を受けたのは、世界最高水準の診断と支援がありながら、悲惨な状況に置かれている人たちも決して少なくないことだった。それは社会格差と貧困の問題と密接に結びついていた。ロンドンで私が所属していたクリニックがカバーしている地域にはいわゆる貧民街が複数あった。時にはそのような地域をスタッフについて回ることがあったが、犯罪、薬物、虐待、暴力といった問題にまみれた貧困地域に支援を届けるのが容易でないことはすぐに見て取れた。ノースカロライナですら決してパラダイスではなかった。もちろん、TEACCHが浸透している特別支援学級などはめざましい成果を上げていて、そういった学級では先生にも子どもたちにも余裕があり笑顔が絶えなかったから、スタッフと一緒に訪問するのはとても楽しかった。その一方で貧しい地域には全く理解のない学校もあり、そんな学校に行く時にはスタッフの方も明らかに表情が暗い。ある学校などは警備員と思しき職員が手錠を持って巡回していた。聞いてみると、子どもが暴れるので手錠をかけるのだという。そこでは担任教師にはほとんど力がなく、むしろアシスタントが暴力でクラスを支配している様子が明らかだった。保護者の要請で学校に行くのだが、もちろんTEACCHのスタッフは全く歓迎されている様子ではなく、ノースカロライナにすらそんな場所があることは驚き以外の何物でもなかった。

そのような経験が教えてくれたのは、たとえ専門機関がどんなに充実しても、その考え方や支援の方向性が地域に浸透しない限り、その人自身をよりよく理解するための前向きの道具として診断を使っていくことは難しくなるということだった。そのことに気づいてから、私の中では「自閉症支援は地域づくりだ」という思いが強くなっていった。「地域づくり」とは、言葉を換えれば「その場にいる人たちを生かす」ことでもある。ある地域には、その地域が置かれている実情やそれに至った歴史があり、それぞれの人たちの思いがある。それを無視してこちらの理想を押し付けようとしても反発を招くだけだろう。幸い、私たちの地域にはこの地域を大切に思い、よい場所にしていきたいと思っている人たちがたくさんいる。私たちが持っている専門性を生かしつつ、そのような人たちと力を合わせて一緒に自閉症の人たちが暮らしやすい地域を作って行くことが、診断を生かしていくための「急がば回れ」なのだと思う。

繰り返しになるが、診断とは、障害の有無を判断したり、それに名前を付けるという単純な行為ではない。むしろ一生続く「その人自身をよりよく理解する」というプロセスの一部として位置づけられるべきものであって、「この子を育てていくことができる」「自分なりに幸せに生きていくことができる」と感じることのできる地域があって初めて生きるものでもある。

このことに思い至るようになって初めて、私自身は自分が診断を担当することに納得できるようになった。もちろん、この地域がすべての人たちが診断を前向きに使っていくことのできる理想の地域だとは決して言えないし、私自身がそこに対してできている貢献も微々たるものだろう。プロフェッショナルとしての知識や技術もまだまだ不十分なものだ。ただ、2年間の海外生活はたくさんのことを私に教えてくれ、進むべき方向を定める時間を与えてくれた。今もそこに向かって歩き続けていることだけは間違いないと思う。

(2014年5月31日のフェイスブックへの投稿から引用)

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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