52. 飲食店の閉店に思う

今日はなんだかショックなことがあった。

外出から帰宅した妻から聞いたのだが、私たちがときどきお世話になっていた飲食店がひっそりと閉店していたらしい。私たちが函館に転居したころにできたお店で、味もお店の雰囲気もオーナー夫妻のお人柄も、私たちにはとても良く思えていたのだが…

函館はこのサイズの街としては飲食店、特に洋食系レストランのレベルが高い。都会から来た方が辛口の評価をすることもあるが、素材の良さも含めたコストパフォーマンスという意味では公平に見てかなりのものだと思う。もちろん大都会には素晴らしい飲食店がたくさんあるのだろうが、大枚をはたかなければならなかったり、かなり努力して探さなければならなかったり、ずっと前から予約しなければならなかったりと、それなりにハードルが高い。それに比べれば、函館では気軽に入ることができる味よし雰囲気よしのお店がそこかしこにある。

ただ、レベルが高いということは競争も激しいということだし、コストパフォーマンスが良いとか気軽に入れるとかいうことは、お店の側からするとコストを抑え、顧客を確保するために並々ならぬ努力を続けているということでもある。実際、新しい飲食店ができては消え、という姿をこの10年、何度も目にしてきた。

しかも飲食店は大変な重労働だ。ランチやディナーの時間はもちろんのこと、仕入れや仕込み、お店の掃除や飾りつけ、食器や調理器具のメンテナンス、広報など、いったいいつ休みがあるのだろう、と思ってしまう。

だから、私は函館の飲食店、特に気に入ったお店は応援したいとずっと思ってきた。もちろん毎日のように食べ歩くことは時間的にも経済的にもできないが、外で食事をするときには料理だけでなく必ず飲み物を一緒に頼むようにしている。飲める時にはアルコール、飲めないときでもノンアルコールビールか甘くないソフトドリンク。ワンプレートやセットメニューなら1杯のこともあるが、コースなら2杯以上にする。

これは確かに私が経済的に一定以上の安定を得ているからこそできることであって、すべての人がそうすべきだと思っているわけではない。ただ「食」に対して求められている有形無形の低価格化の圧力に対して、なんとなく釈然としないものを感じるのもまた事実なのだ。

しばらく前に、ニーチェの言葉をもじったこんなツイートがあった。

「お前が低価格を覗き込むとき、低賃金もまたお前を見ているのだ。お前が無料を覗き込むときには、ただ働きがお前の足首を掴んでるのだ」

(by 葛西伸哉さん@kasai_sinya)

自営業なのだから自己責任、自由競争こそが社会の発展を生む、低価格化は消費社会の正義、という考え方もあるだろうし、それが一面で真実であることは否定しない。

しかし、血のにじむような努力やずば抜けた才能、人をうならせるアイデアで勝ち抜く人しか生き残れない社会、勝者と敗者に分かれて争うしかない社会なら、その刃はいつか必ず自分に向いてくるような気がしてならない。普通の才能で、普通の努力で、普通に生活できる社会は、いったいどうしたら可能になるのだろうか。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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