スポーツや楽器演奏などのような一定のトレーニングを必要とする分野では、レベルの高さはその分野の人口規模に強い影響を受けます。たとえばチェスでは、国ごとのプレーヤーの数とタイトル保持者の数との間に高い相関があることが知られています。実際にプレーしたり演奏したりする人だけでなく、ファンとして応援する人やその世界にあこがれる人の数が多くなれば、やはりレベルを高めることに寄与するでしょう。逆に言えば、楽しみとして参加する人もファンも少ない場合には、全体としてレベルを保ち、高めていくことはかなり難しくなります。
私たちがかかわる支援の分野にも同じことが言えます。支援の基礎になる、いわゆる支援技法やその背景にある考え方には様々なものがあります。自閉症支援の分野では、応用行動分析学、そこから生まれた絵カード交換式コミュニケーションシステム(PECS)などの支援体系、TEACCHプログラムなどの包括的・全人的な支援プログラム、そこで発展してきた視覚的支援などの支援技法、英国自閉症協会が提唱するSPELLフレームワークなどです。これらの中には、正しい考え方や方法をきちんと伝えるための教育プログラムや資格制度を設けているものが多くなってきました。はじめから教育プログラムや資格制度がセットになっていたものもありますし、理解が不十分なまま行う人が増えたことが問題になり、比較的新しく導入されたものもあります。
基本的にはこれは正しい方向です。スポーツでも、正しいやり方で行わなければ上達を妨げたり大怪我につながったりします。私たちの支援でも、見よう見まねだけの間違ったやり方が支援を受ける人の人生に深刻な影響を与えてしまったり、成果の上がらない支援が支援者の意欲をそいでしまったりすることは十分に考えられるでしょう。ですから、正しい教育を行い、知識と技術を持った人たちをしっかり認定する制度が重要であることに疑いの余地はありません。
ただし、このような教育プログラムや資格制度が陥りやすい罠もあります。それは、それらがあまりにも厳格になりすぎることで、携わっている人たちの層が薄くなり結果的には全体としてのレベルが向上していかないという問題です。これをサッカーを例に考えてみましょう。入団テストに合格してプロチームの下部組織に所属しなければサッカーボールに触ることはできない、ということになれば、長期的にはサッカー人口は減少し、その国のサッカーのレベルは下がっていくでしょう。あるいは、教えることのできる人は認定を受けたプロのコーチだけ、ということになり、非公式な「教える」行為が厳しく取り締まられるようになれば、親が子どもにサッカーの素晴らしさや楽しさを伝えることも難しくなってしまうかもしれません。サッカー大国ブラジルを支えているのは厳格なサッカー教育というよりも、むしろたくさんの子どもたちが路地や空き地で「サッカーもどき」に興じ、老若男女がひいきのチームの勝ち負けに一喜一憂するという、分厚いサッカー人口によるところが大きいでしょう。
私が出会うほとんどの支援者に共通しているのは、程度の差こそあれ「いい支援をしたい」という思いです。そのような人たちの多くは、特定の支援技法への関心自体が支援を学ぶための原動力になっていることはまずありません。むしろ、身近にその支援を行っている人がいるような、ハードルが高すぎない現実的な支援技法とそれを学ぶ機会を求めていることの方が多いでしょう。このような人たちが大多数を占める支援の現場で全体のレベルを上げて行こうとすれば、厳格な教育プログラムと資格制度の正統性を強調していくだけでは、決して十分ではありません。むしろ、制度の運用の仕方によっては、「正しいやり方」が少数の限られた人たちだけのマニアックな名人芸という誤解を生み、多くの人たちにとって煙たい、縁遠い存在になり、長期的に見ると全体的な支援のレベルを下げてしまう可能性すらあるかもしれません。
ですから、私たちがある支援技法の有効性を感じ、それを正しい形で普及させていこうと考えれば、その正確性・正統性にこだわるだけでなく、できるだけ幅広い人たちに知ってもらい経験してもらえるような懐の深さも必要です。確かに普及すればするほど支援も玉石混交になり、特定の支援技法の名の下で不適切な支援が行われる可能性は増すかもしれません。それでも、携わる人が多ければ多いほど優れた力を持つ人たちもまた多くなり、思ってもみなかったような発展を見せる可能性も高くなります。サッカーを楽しむ人が多かったからこそ、そこからラグビーやフットサルが生まれ、独自の発展を遂げたのです。
私が懸念しているのは、優れた支援の考え方や技法が、それに傾倒しその有効性を主張する一部の人たちによる、閉じた世界になっていってしまうことです。「正しくかつ正統的でなければならない」という一見正しい、しかし偏狭な教条主義によってその世界が広がりを欠いたものになり、やがては廃れていくかもしれない。優れたものであればあるほど、私にはそのことがとても残念に思えます。
私は支援に関する正統的な教育プログラムとそれに基づいた資格制度を否定しているわけではありません。むしろ、そのようなきちんとしたシステムを確立すること、そしてそれを尊重することには大賛成の立場です。しかしその一方で、多くの人たちの身近に「それなりの」レベルの実践があり、肩の力を抜いて学べる入門的な機会があり、そしてそれを実践している人たちのコミュニティーに様々な立場やレベルを許容できる包容力がある、ということがとても大切だと考えています。そのような基礎的な構造があって初めて、「おおよそ正しい」ことでは飽き足らなくなり、もっと深く、正しく学びたい、と考える人が出てくるのではないでしょうか。幅広い裾野を基礎にして自然に山が高くなっていく。それが望ましい発展のしかたであり、普及し長く続いていくための条件ではないかと思っています。
高い山は広い裾野を必要とする。優れた支援にとっては、トップのレベルの高さと携わる人の広がりの、そのいずれもが大切であることを忘れないでいたいものです。