50. 東北訛り

故郷の宮城を離れ、東京で働くようになり数年が過ぎたころのことだったと思う。自分が田舎育ちであることに引け目を感じ、地方独特の人間関係のわずらわしさやどこか封建的な体質にも息苦しさを感じていた私は、大学院での研究が思うようにいかなかったこともあり、院を卒業するとすぐ過去を断ち切ろうと上京することを決めたのだった。

当時、私は重症心身障がい児専門の病院に勤務していた。朝に出勤すると、まず医局の前に置かれた出勤簿に印を押す。ときどきそのあたりを掃除している年配の女性が私の注意を引いた。その話し方には聞き覚えのある東北の訛りがあったのだ。私の母親と同じかやや若いぐらいだっただろうか。いつの間にか、私はその女性に廊下で会うと言葉を交わすようになった。

東京で生活している東北人は訛りを隠そうとする傾向がある。私が東京で出会った東北出身者は、たいてい全く訛りがないか、あってもごく微妙なイントネーション程度だった。私自身も標準語でほとんど訛りを交えずに話すことができたし、田舎育ちと東北訛りが劣等感になっていた私にとって「ぜんぜん訛りがないですね」という言葉は一種の誉め言葉として響いた。しかし、その女性は、東京ではなかなか聞くことのできない明らかな東北訛りで話した。

混じりけの少ない方言には、独特なリズム感と響きがある。過去を捨てたつもりで帰省すらしなくなっていた自分が東北訛りに一種独特な美しさや心地よさを感じたのは、我ながらちょっとした驚きでもあった。それ以来、その女性と挨拶や短い言葉を交わす一瞬が自分にとっては特別な時間になった。石川啄木の「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」という有名な短歌が思い起こされた。

数年が過ぎ、私は海外に勉強に行くために勤めていた病院を辞め、それを機会に結婚もすることになった。私が退職する日、上司が私のところに立派な室内装飾品を持ってきた。「掃除の○○さんからですよ」との言葉に私は驚いた。私にとっては一種特別な存在だったとはいえ、ごくたまに短い挨拶をする程度の人から祝いの品をいただこうとは、全く予想もしなかったことだった。その人に私が東北出身だという話をした記憶はなかった。私の話し方にごくわずかな訛りを感じ、同郷だと察知していたのだろうか。今となっては、あまりの忙しさにまぎれて直接お礼をしそびれてしまったことが悔やまれてならない。

東北を離れて20年以上が過ぎたが、時間も、住む場所も、私の中の東北人としての強固なアイデンティティーを消し去ることはできなかった。それは確かに、訛りを恥じる傾向、田舎であることに対する引け目、東北の置かれている状況に対する複雑な思い、そういったものと東北人としてのプライドの混じりあった、独特な陰影を伴ったものだ。ただ、そのことが私の思考を鍛え、行動の原動力になり、今の私自身を形作る大きな力にもなってきたと、今になって思う。

私の自宅には、あのときにいただいた室内装飾品が今でも飾ってある。ときどきそれを眺めながら考える。自分は東北人で、それでよかったのだ、と。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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