43. 重苦しい週末になった。

重苦しい週末になった。

バグダッド、ベイルート、そしてパリで連続テロが起きた。
なぜこんなことが起きるのだろうか?
なぜ悲劇は終わらないのだろうか?

テロリズム自体は許されるものではない。
卑劣な脅しに屈することはあってはならないことだし、犯行に及んだ者たちを擁護しようとも思わない。
犠牲になった方々のことを思うと、いたたまれない気持ちになる。自分や家族が悲劇に直接まきこまれれば、私だっておそらく深い悲しみとともに激しい怒りと復讐心を押さえることはできないだろうとも思う。

それでも、それだけでは何かが違うような気がしてしかたがない。

思いだしていたのは、中学生の頃読んで衝撃を受けた太宰治の遺作、「家庭の幸福」だ。

ごく単純で幼かった私がこの小説を初めて読んだ時の、全身の毛が逆立つような恐怖感は今でも忘れられない。晩年の太宰らしい陰湿な毒と救いの見えない絶望感に満ちた作品で、とても好きな小説は言えないのだが、なぜか心に刺さった棘のように自分に付きまとい続け、今でもことあるごとに思い返されるのだ。

私の幸せは、誰かの不幸の上に成り立っているのではないか?

この一種の不安と罪悪感のような感情は、太宰のこの小説に出会って以来、常に自分の思いの根底に、表面からは見えない地下水のように流れている。普段はほとんど忘れているのだが、いったん大雨になると御し難い強い流れになって表面に現れてくるのだ。

私は聖人君子ではないから、現実の世界では自分の幸福を追求している。まず自分が満たされ、精神的に安定してこそ、自らの力を人のために生かすことができることは、私自身が日頃から強調していることだったりもする。冷静に考えれば、単純に自分が自分の幸福を手放すことが直接誰かを幸せにするわけでもないことはすぐにわかることだ。

それでも、自分の幸せが他人の不幸の上に成り立っているのではないか、という不安は決して消えることはないだろう。おそらくそれは、(少なくとも)部分的には事実なのだ。

私の幸せ、家族の幸せ、地域の人たちの幸せ、日本に暮らす人たちの幸せ、そして世界中の人たちの幸せが矛盾なく成立する世界は、いったいどうしたら実現できるのだろうか。そして、そのために私にできることは何なのだろうか。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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