37. 科学は人を謙虚にも傲慢にもする

科学は人を謙虚にも傲慢にもする。

科学少年上がりだった私は、大学卒業後、2年間の小児科医としての初期研修を終えた後に大学院に入学した。高校までは典型的な田舎の優等生、大学も決まった勉強をして試験に合格しさえすればエスカレーター式に上っていける医学部、という経験しかなかった私にとって、大学院でも一生懸命研究すれば自動的に立派な研究者になれるのだと無邪気にも思いこんでいたのだ。思い込んでいた、というよりも、ほとんど無意識の前提のようなものだったといった方が正確かもしれない。

大学院に入って最初の1年半ほどは順調だった。私は、先天代謝異常症の遺伝子研究に従事し、大学院2年生のときには、完全な論文ではなかったものの”The Lancet”という英国の雑誌の”Letter to the Editor”という手紙形式のセクションに研究の途中経過が掲載された。”The Lancet”は医学雑誌の最高峰の一つで、それに掲載されるというのは、完全な論文ではなかったとはいえかなり高い評価を受けたといってよかった。国際学会や国際シンポジウムでも発表者に選ばれ、(大学院生の研究なのだから、冷静に考えれば自分の実力なんかじゃなかったのだが)私は内心、鼻高々だった。研究者として将来への道が開けていくような気がした。

しかし、研究の世界はそんなに甘くなかった。そのあとに待っていたのは、来る日も来る日も結果の出ない、地獄のような日々だった。どんなに努力しても思ったようなデータが出ない。生活も次第に乱れ、朝方まで実験し、だれにも会わないように早朝に帰る、という昼夜逆転の生活になっていった。データのねつ造に手を染めそうになり、すんでのところで思いとどまったことすらあった。

情けないことだが、大学院3年のときに、私はついに「不登校」になった。研究室に行けない日々が続き、大学院を辞めて臨床医に戻ることばかりを考えるようになった。半年ほども空白期間があっただろうか。助教授が何とかなだめてくれ、私はとりあえず実験を再開した。何をやっても価値のない研究にしか思えなかったが、学位論文だけは何とか仕上げ、大学の紀要に掲載してもらって学位を取得した。学位授与式では周囲の人たちの業績がやたらにまぶしく見え、自分の貧しい仕事に敗北感しか持つことができなかった。

大学院を卒業すると、私は逃げるように仙台を離れ、東京の病院で研修医として再スタートを切った。しかし、過去を捨てたつもりで臨床に専念していても、傷はなかなか癒えなかった。私は器の小さい人間だったから、だれそれが何の雑誌にこれこれの業績を発表した、ポスドクとして外国に留学した、などという噂が聞こえてこようものなら内心穏やかではいられず、研究者になれなかった自分の資質の貧しさを呪った。

ところが、臨床を勉強しているうちに、大学院で勉強した日々が必ずしも無駄ではなかったことに気づくようになった。大学院での生活は、結果的には論理的に物事を考えるトレーニングになっていたのだ。研究を計画することもそうだし、一流の論文を日常的に読む生活も、「論理性」という面で知らず知らずのうちに自分の肥やしになっていた。臨床に戻ると、大学院で学んだ論理性は自分の武器になった。結局は時間も私に味方をしてくれた。いつの間にか研究業績のことはあまり気にならなくなり、敗北感は薄れていった。

そして、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、さんざん挫折した後でも自分の科学少年だった部分は大きくは変わらなかった。業績という呪縛から自由になると、一流の論文を読むことはやっぱり楽しかった。優れた論文や総説、解説書を読むと、科学がとても進歩したように見えても、その先にはまだまだ分からないことが満ちていることを同時に感じさせられた。真理に深く迫った人ほどそのことに思いをはせ、自然の複雑さの前に自分の小ささを感じ、謙虚な気持ちになるものなのに違いない。科学の歴史に燦然と輝く足跡を残した巨人、アイザック・ニュートンは、「私は海辺で遊んでいる少年のようなものだ。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」と語ったと伝えられている。

大学を離れて20年近くがたち、私はすっかり臨床一本の人間になっていた。そんなある日、母校から講演の依頼が来た。大学を飛び出した私に対して、必ずしも快く思っていない人たちもいるかもしれない。私はそう思ってはじめは躊躇したが、自分の変わった姿を見てもらいたいという思いもあって、結局は引き受けることにした。当日は、自分の臨床家としての思いや積み重ねてきたことを思う存分に話すことができたと思う。講演の後には、教授を交えての懇親会があった。教授は、私の大学院時代の直属の指導教官だった。

懇親会の席上、目の前に座っていた教授が思いがけない言葉を口にした。「(高橋が)研究を続けていたら、きっとどこかで成功していたと思うよ」と。びっくりしている私の方を見ながら、教授は続けた。「でもそうしたら、すごく鼻持ちならない、嫌なやつになっていたろうけどね」そう言った教授の顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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