30. 「できる人」の罠

「できる人」「優秀な人」と評価されることは、うれしいものです。努力が認められたように感じるでしょうし、さらにやる気が出るかもしれません。「自分は、できる」と感じることが、自分にとって大きな支えになることもあります。基本的には「できる人」と評価してもらえることは、いいことには間違いないでしょう。

でも、おそらくそこには、本人も気付きにくい、あるいは気づいていたとしても簡単には抜けられない落とし穴が隠れているかもしれません。

私がこのことを強く意識するようになったのは、仕事とは全く関係のない出来事からでした。それは1995年のこと、イギリスの名門投資銀行、ベアリングスの経営破綻のニュースでした。日本でも繰り返し報道され、映画にもなったことから覚えていらっしゃる方もいるでしょう。この大事件は、当時、ベアリングス銀行のシンガポールの子会社で取引責任者を務めていたニック・リーソンが取引の失敗を隠蔽し続けた結果、200年もの伝統を持つ銀行がわずか数日間で破産に追い込まれたというセンセーショナルなものでした。後に「ならず者トレーダー」と呼ばれるようになるリーソンは、実はそれまでは莫大な利益を稼ぎ出す敏腕投資家として「できる人」と思われていた人物だったのです。

イギリスの労働者階級に生まれ、高校中退ながら取引の責任者にまで上り詰めたリーソンは、だれもがサクセスストーリーの主人公として認める存在でした。実際、不正に手を染める前には債権処理に手腕を発揮するなど、その能力にはかなりのものがあったようです。そんなリーソンの不正は、部下の取引失敗をかばうために始めたものだったといわれています。しかし、穴埋めしようとすればするほど損失は拡大していきました。とどめを刺したのは、1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災でした。株価の暴落によって損失が膨れ上がり、それを挽回しようと投資を繰り返しさらに深みにはまる…これ以上の隠蔽は不可能と悟った2月23日、リーソンは辞表を提出し逃亡します。不正が明るみに出るやいなやイングランド銀行がベアリングス銀行の救済に動きますが、あまりに巨額な負債の前になすすべなく、リーソン逃亡から3日後の2月26日、「女王陛下の銀行」とまで呼ばれた名門銀行の輝かしい歴史は、たった一人の社員の不正によってあっけなくその幕を閉じたのでした。

私がこの事件を知ったときに真っ先に思ったことは、「できる人」という評価が実はリーソンを孤立させ、外部に助けを求められなくしてしまい、結果的に抜け出ることのできない蟻地獄のような状況に追い込んでしまったのではないかということでした。逃亡の2日後に逮捕されその後実刑判決を受けたリーソンは、刑期を終えた後のインタビューの中で、「毎日辞めたいと思っていました。今日捕まるのではないかとびくびくして・・・」と語っていたそうです。その言葉から浮かび上がってくるのは、不正によって巨額のボーナスを手にしほくそ笑む金の亡者というよりも、むしろ「誰か俺を止めてくれ!」と心の中で叫びながら自分ではどうすることもできなかった弱い人間の姿です。もちろん成功報酬や虚栄心というニンジンがリーソンを駆り立てていたという面はあるでしょう。ただ、逃亡こそしましたが、あっさりと逮捕されてしまったとき、おそらく彼の心の中には絶望とともに一種の安堵感があったような気がしてなりません。

さて、この事件が私たちに何を教えてくれているでしょうか。私たちは普段、「できる人」という評価を、無条件によいことと感じてしまいがちです。実際、「何を、どのように、どれくらいできるのか」という冷静な評価に基づいたものであれば、おそらく大きな問題はないでしょう。それは、その人の限界も把握していることになるからです。厳密な評価ではなくても「このような立場の人は、一般的にこのような問題を抱えやすい」ということが意識されているだけで、盲目的な信頼とはだいぶ違います。そうなれば周囲の人たちにとっても安全であると同時に、その人を孤立させ、後戻りできない状況に追い込んでしまうことを防ぐことにもなるでしょう。反対に、「あの人はできる人だからなんでも任せておけば大丈夫」という一種の丸投げは、その人を孤立させ、場合によっては取り返しのつかない結果を生んでしまうかもしれないのです。

具体的な例を考えてみましょう。まず自分自身についてです。「できる人」と思われたい、という思いが強すぎたり、「できる人」という評価を自分のよりどころにしているとき、私たちはその評価が得られないことやその評価を失うことを恐れるようになります。それが実態と見合っていればいいかもしれませんが、限界に目をつぶったままで「できる人」の評価にすがりつくことは、むしろ自分をがんじがらめにしていく危険性を持っています。もちろん向上心はいいことですし、「できる人」になりたいという思いで努力を続けることには重要な意味があります。ただ、自分が成長し、「できる人」になったと感じたとしても、そこにはかならず限界があり万能にはなり得ないこと、自分一人では解決できないことに対しては助けを求めることをを常に意識しておく必要があるのだと思います。

もう一つの例は、周囲の人たちについてです。支援者という立場からいえば、上司であれ、同僚であれ、部下であれ、盲目的な「できる人」という評価はやはり危険です。その人がどんな限界を持っているのかを認識することは、決して相手を侮蔑することでも過小評価することでもありません。むしろ、その人を生かすために、その人の持っている強みと同時に、その人の弱さを知っておく必要があるのだと思います。そして、そこには自分自身を含め、不完全で弱点だらけの人間が責務を担わなければならないことを前提にした、組織的なリスクマネジメントが必要なのでしょう。

保護者の方や当事者の方についても、同じようなことを考えておく必要があるかもしれません。たとえば、私たち支援者は、保護者の方が子どものことをよく理解し上手に子育てをしているとき、「この親御さんなら大丈夫だろう」と、十分な支援を提供しないままにしてしまうことがあるかもしれません。ところが、だれもが「いい親御さん」と思うような保護者の方ほど、実は皆から頼られる一方で自分自身の問題や不安は誰にも相談できないという状況に追い込まれやすいかもしれないのです。私自身、「素敵な子育てをしている模範的な親御さん」と思っていた保護者の方が、実は「できる親御さん」という評価の重荷と誰にも相談できない孤独感で苦しんでいたことを知り、驚くと同時に、自分自身の感度の低さを情けなく思った経験があります。

もちろん、どんな立場であったとしても、私たちが押さえなければならない最低限の基本は間違いなくあります。ただ、そこを押さえたうえで、あちらにぶつかり、こちらにぶつかりしながらも、よろよろと何とか前進していくという姿が、自信満々に見える張子の虎よりも実は自然でむしろ健康的なときもあるのかもしれません。そう考えると、自分のできなさ加減にうんざりしたり、弱音を吐いたり、SOSを求めたりすることも、まんざら悪いことばかりではないような気がします。

だれもがいいことだと思い、そうなりたいと願う「できる人」。いいことなのには違いありませんが、そこにはちょっとした落とし穴が隠れていることを知っておくのも大切なのかもしれません。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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