私は、難しい問題に突き当たったときには必ず一度「原則」に立ち返ってみることにしています。その場合、その原則がどれだけ幅広い状況に当てはまるか、という「原則の普遍性」を必ず考慮しています。
例をあげましょう。自閉症の人に対して「失敗させてはいけない」ということがよくいわれます。これは完全な間違いではありませんが、原則としての普遍性は低いといえます。なぜなら、当然のことですが自閉症の人でも失敗から学ぶことができる場合もあるからです。ただ、一般論としては自閉症特性を持つ人は失敗体験を通じて学ぶことが苦手なことは多いですし、失敗体験が否定的な辛い記憶としてだけ残ってしまうことも少なくありません。この場合のより普遍性の高い原則は、「自閉症の人にはなるべく失敗させない」というものでも、「自閉症の人にも失敗体験は必要だ」というものでもなく、「ある状況から学べるかどうかは人それぞれに異なるし、同じ人でもそのときの状態によって変化しうる」というものです。言い方を変えれば「ある人に何かを学んでもらいたい場合には、その人がその方法によって学べる状態になっているかどうかを知る必要がある」ともいえるでしょう。そう考えれば、自閉症の人には失敗させるべきかさせないべきか、という結論の出るはずのない議論ではなく、ある状況において失敗を経験した場合、その人がそこから学ぶことができるかどうかを知ることがまず必要であるということになります(どうやってそれを知ることができるか、という問題はそれ自体が非常に重要な問いですが、今回はそこには触れません)。
私が原則の普遍性について考えるようになったのは、「自立とは何か」という問いに直面したことがきっかけになっています。「自立」を狭く解釈すれば、できるだけ身の回りのことを自分でできる、あるいはできるだけ一般就労する、ということになるかもしれません。もしそうだとすると、決して「自立」できないような重い障がいを持つ方についてどう考えたらよいのか?ということが私の疑問の出発点でした。また、「もっと自立しなければだめだ」と周囲にプレッシャーをかけられ、必死で自立しようとしながらうまくいかずに苦しんでいる人たちに出会ったことも、私に「自立とはいったい何なんだろう?」と思わせたきっかけになりました。狭い意味での「自立」がよいことであるとすれば、様々な側面で支援を必要とすること自体がよくないことになってしまいます。また、仮に苦しい思いをして自立レベルを多少高められたとして、もしそれがその人にとって納得できない辛い体験としてしか残らなければ、その人の人生にとって「自立」は本当にプラスなのかどうか、疑問を持たざるを得ません。私はそこに漠然と違和感を持ち、これは「自立」の定義が間違っているか、「自立=よいこと」という理解の仕方が間違っているかのどちらかだろう、と思いました。
私の疑問は、ある日、あっけなく氷解しました。こんなことを考えていたのは私が初めてではなく、既に幾多の議論がなされてきたのを知ったからです。1950年代には北欧で、そして1960年代には北米で、身辺自立や職業的自立のみを自立と捉える従来までの自立観へのアンチテーゼが巻き起こり、「自己選択・自己決定こそが自立の根本である」という新たな運動が起こりました。その歴史に触れたとき、それまでの私の違和感に一つの明確な回答が示されたと感じたのです。自己選択・自己決定が自立の根本であるとすれば、すべてを自分で行わなくても、自分に必要な援助を自ら求めること自体が自立につながることになります。仮に重い知的障がいがあったとしても、その人がある環境の中で自発的に取る行動が状況にふさわしいものであって、そのことによる困難が少なければ、それを一種の「自己選択・自己決定に基づく自立」であると考えることもできるでしょう。本人が身辺自立や職業的自立を求めて積極的に行動することはそれ自体が重要な自立の要素であり、反対にわけもわからずに「自立」を強要されている状況は本当の自立ではない、ということになります。もちろん、必要な援助を求めることができるためにも、自発的な行動が状況に合っているものになるためにも、やはり一定の援助が必要です。しかし、そのような自己選択・自己決定に必要な援助こそ、社会における一種のインフラでなければならないと私は考えています(この点については以前の投稿「感謝される支援は二流の支援」または「沢山のことは都合よく日常に隠されていて…」をご参照ください)。
無論、身辺自立を高めたり、職業的自立を目指したりすることにも一定の意味があり、私自身その重要性を否定するものではありません。ただ、自己選択・自己決定は自立にとって最も普遍性の高い原則であって、それを欠いた状態を自立と呼ぶことができないということだけは間違いないでしょう。だからこそ、私は自立について考えるときには単なる身辺自立や職業的自立ではなく、自己選択・自己決定という側面を真っ先に考慮することを忘れないようにしたいと思っています。
重要な原則ほど普遍性が高い。私にとっては、これ自体が重要な原則です。