26. ソーシャルスキルは英会話と似ている

以前、このブログでConnie Kasariの論文について取り上げました。自閉症スペクトラムの小学生に対してソーシャルスキルトレーニングを行った場合と、周囲の子どもにピア・サポートの指導を行った場合では、前者では本人のソーシャルスキルにほとんど効果が見られず、後者では一定の向上が見られたというものです。もちろん、ソーシャルスキルトレーニングの内容や期間、対象となった子どもの特性などの問題はあるかもしれませんし、この論文一編をもってソーシャルスキルトレーニングは無意味であるという一般化ができるものでもありません。

それでも、普段の生活とは切り離された特別な環境の中で学ぶソーシャルスキルトレーニングに限界があることは、やはりその通りだろうと思います。その理由を考えているうちに、私はソーシャルスキルトレーニングは英会話の学習と共通点が多いのではないかと思うようになりました。

私は以前、週1回、1回1時間ほどの英会話教室に通っていました。英会話教室の最も効果のない使い方は、ただ週1回通うだけ、というやり方です。自分で勉強する時間も取らず、英語を日常的に使う場面もないまま通い続けても、いざ英語を使わなければならない、という場面が来たときに、それまで学んだものはあまり実用になりませんでした。もちろんそれまでの英語の学習が全く無意味だったというわけではありませんが、相手の言っていることがよくわからなかった、伝えたいことがうまく伝わらなかった、という不全感が残ることのほうが多かったといっていいでしょう。

私自身の英語力の向上には、イギリスとアメリカでの生活が大きな役割を果たしました。イギリスに渡って、初めの半年はとても苦労しました。イギリス人は当然のことながら、留学生もほとんどみな英語が流暢で、聞くのもしゃべるのも不自由な私は「今までこんなに長い間英語を勉強したのに…」と、悔しく、情けない思いばかりでした。私に対してまったく手加減してくれず機関銃のようにしゃべる人もいました。必ずしも悪気があってのことではないのですが、英語が不自由などということは考えもつかない、という感じです。数こそ多くはありませんでしたが、中にはあからさまにいやな態度をとる人もいましたし、直接私に対してではなくても、私からすると十分に流暢に話しているように見える留学生の訛りに対してさげすむような態度をとるイギリス人もいました。そんなときには私は委縮してしまい、ますます話せなくなり、そんな日が続くと外出するのも怖くなりました。

しかしそんな中でも私と積極的にコミュニケーションを取ろうとしてくれる人たちはそれなりにいて、彼らは何とか私のわかる方法で伝えよう、私のことをわかろう、としてくれました。中には、日本語を話せないことを残念に思ってくれる人もいました。英語が事実上の国際的な公用語となっている現在、イギリス人の多くは、他のヨーロッパの国の人たちに比べると外国語があまり得意ではありません。そのような点にむしろ引け目を感じるイギリス人までいることは、英語について劣等感にさいなまされていた私にとっては新鮮な驚きでした。私のつたない英語に耳を傾けてくれ、私に伝わるように話そうとしてくれる人の前では、私は次第に話せるようになり、そのような人たちが私に伝えようとしてくれることは、だいたいわかるようになっていきました。

翌年アメリカに渡ると、私の英語力は飛躍的に伸びました。アメリカ人はとてもフレンドリーな人が多く、親しく付き合ってくれる人の数がずっと増えたからです。もちろん私は基本的には学ぶ立場でしたが、ただ教えてもらうだけではなくなり、プロフェッショナルとして意見を求められたり、レポートの作成に参加したりすることもありました。そのような中で私は次第に自信を取り戻し、積極的にコミュニケーションをとるようになりました。留学先のスタッフについて特別支援学級の授業に同行することもよくありましたが、日本から来たというと、子どもたちは私に強い関心を示しました。自閉症スペクトラムの成人向けソーシャルスキルグループでも同じでした。彼らのほとんどは、日本のアニメが大好きだったのです。彼らは日本人の私に対して興味津々で、日本の話を聞きたがりました。私がひらがなや漢字を書いて見せるだけでも歓声が上がるほどでした。今でもよく覚えているのは、成人グループで行った”Japan Night”です。私がスライドを使って日本の紹介をして、そのあと私たち夫婦が用意した簡単な日本食や日本のお菓子(ポッキーが人気でした)をみんなで食べるというごく単純なものでしたが、そんなささやかな時間が日本人としての自分にちょっとした誇りを持たせてくれたのです。そして私はオープンなアメリカ人のことがますます好きになりました。

さて、Connie Kasariの論文に戻ります。週1回1時間、日常生活から切り離された環境で学ぶだけでは、おそらく実用的なソーシャルスキルはなかなか身につきません。反対に、毎日の生活の中で周囲の子どもたちが積極的にかかわろうとしてくれることが、自閉症スペクトラムの子どもたちのコミュニケーションの意欲と技術の向上につながるのでしょう。それと同時に、まずはありのままの状態を受け入れてもらえることで、むしろ自ら周囲に溶け込もう、自分なりに努力しようという動機づけとなるのだと思います。

ただしこれは、単に日常的な人間関係の中に投げ込めばソーシャルスキルは自然に身につく、という意味でないことには注意が必要です。英会話のたとえを使っていえば、私にとってイギリスでの最初の半年間は、むしろ人とのコミュニケーションを取ろうとしなくなり、自分の部屋に引きこもっている時間が長くなっていった時期でした。コミュニケーションに苦手意識を持っている人にとっては、手加減なしの人とのかかわりは怖いものです。私自身が直接お会いすることはありませんでしたが、ロンドンに駐在で来ている日本人の家族の中には、現地の人とは全くかかわろうとせず、ほとんど日本人のコミュニティーの中だけの生活になってしまう人もいるそうです。

もう一つ印象に残ったのは、イギリスやアメリカでの生活が長い日本人の中には、かなりブロークンな、日本語英語といってもいいような独特な言葉を話す人たちがいたことです。そのような英語は、確かに限られた人たちの中での日常生活では十分に実用的なのですが、一歩外に出ると言葉が壁になってしまうことも多いようでした。外国語の習得は母語の習得とは異なり、経験さえ多ければ自然に身についていくわけではありません。むしろ母語とは違った学習戦略が必要で、そのような意味では、母語では決してしないような文法やボキャブラリーの学習にも一定の意味があります。私自身の英語でのコミュニケーション能力が伸びた背景には、単に話す機会が増えたというだけではなく、それまでの地道な机上学習の積み重ねや、それを日常生活の中で何とか生かそうと四六時中意識し続け、試行錯誤を続けていたことが大きかったと思います。

これは、ソーシャルスキルトレーニングには日常生活の中の経験だけでは得られないトレーニングだからこその意味がある、ということにつながるのかもしれません。単に経験だけに頼ってしまうと、一部の人たちにしか通用しにくい独自性の強すぎる関わり方になってしまったり、時には誤った学習につながることもあるでしょう。ですから私は、本人に学ぶ意欲があり、学んだものを生かせる場面が保障されているという条件さえ満たせば、即効性は乏しかったとしてもソーシャルスキルトレーニングには一定の意味があるのではないかと考えています。逆にいえば、ソーシャルスキルトレーニングを真に効果的なものにしようと思うなら、学ぶ意欲を引き出す工夫と、学んだ技術を日常生活の中で応用できる機会、そしてかなり長期間にわたる地道なトレーニングが必須ということなのかもしれません。

今まで書き連ねてきたことは、もちろん科学的に根拠があることではなく、私自身の限定的な経験に基づいた一種の感想文のようなものです。この体験にはきっと私の特性が関係していて、私と同じ経験をしてもすべての方が同じように感じたり行動したりするわけではないでしょう。ヨーロッパの人たちのように母語が英語に近い人たちは比較的容易に英語を習得し、日本人のように母語が英語から遠い人たちは英語の習得に苦労するように、認知特性の個人差によってもソーシャルスキルトレーニングの効果は変わってくるのかもしれません。ソーシャルスキルトレーニングの有効性やそのあるべき姿を本当に考えようとすれば、個人的な体験にとどまらない客観的な検証が必要です。そのような意味で、今後、Connie Kasariをはじめ、様々な研究者による知見の積み重ねに注目していきたい思っています。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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