21. 「沢山のことは都合よく日常に隠されていて…」

私の知人に、大石守さんという薪ストーブ屋さんがいらっしゃいます。彼は文筆家でもあり、「ボラット」という地域のボランティア情報誌に、ユニークで自然体な生き方をされている人々を取材した「ナチュライフ スケッチ」という連載をされています。「ボラット」は私の職場にも届くので、私は大石さんの文章を毎号楽しみに読ませていただいています。

「ボラット」最新号の文章は、南野さんという鹿撃ちをされている方のお話でした。北海道では野生の鹿が増えすぎて、農作物や森林の被害が増えています。交通事故も多発しています。そのために年間10万頭もの個体を減らさなければならない状況になっています。南野さんは林業試験場で鹿の研究をする傍ら、鹿ハンターとしての活動も行っているのだそうです。

大石さんが南野さんの活動を紹介したこの文章の中に、私の目を引いたくだりがありました。

”南野さんは自分で食べる肉は自分で獲った獲物だが、僕等が食べるフライドチキンや牛丼は誰かが殺した命である。ハンターだけが残酷なわけでは全くない。
 沢山の事は都合よく日常に隠されていて、より“自然”に近いのは南野さんのほうだと思う。”

これを読んだとき、私は、自分の仕事に通じる部分があることを感じたのです。

私たちは、発達診療の対象となる人たちについて、しばしば「支援の必要な人たち」という捉え方をします。反対に言えば、「普通」の人たちは「支援の必要のない」「自立した」存在、と考えてしまいがちかもしれません。

よく考えてみると、これは完全な誤解であることに気づきます。現代社会では、人間は完全に自立して生きていくことはできません。食糧を完全に自給している人はほとんどいないでしょうし、電気、ガス、水道、公道、公共交通機関、通貨などのお世話になっていない人も、ごくごく例外的といっていいでしょう。私たちが「自立」と思っている状態は、実は社会の中に埋め込まれている仕組みに支えられていて、私たちは普段、それを意識することはほとんどないのです。つまり、私たちにとっては「沢山のことは都合よく日常に隠されて」いるのです。

このような仕組みは私たちにとってはありがたいものなのですが、実はその陰に大きな問題が隠れています。それは、仕組みの多くは、「多数派」の人たちのために作られているものだという点です。確かに最近では、物理的なバリアフリー化や点字ブロックの設置、音声ガイドの普及、多国語表示、ピクトグラムの使用など、少数派の人たちを意識した取り組みもなされるようになってきました。しかし、多数派の人たちへの支援の仕組みは特段意識されることもない、ごくあたりまえのものであるのに比べると、少数派の人たちへの支援の仕組みは、どうしても意識的なものになりやすい傾向があります。

このことは、二つの問題につながっています。その一つは、少数派の人たちが支援の必要性を訴えると、(一部の)多数派の人たちから「支援を求めるなら、まず自分で努力してから」と思われてしまいがちだ、ということです。多数派の人たちは、自分たちが目に見えない仕組みによって支えられていて、そこには莫大なコストが投入されているということをあまり意識する必要がありません。ですから、自分の努力が社会の中に埋め込まれている膨大な支援システムの上に乗っているということに気づきにくいのです。それに対して、努力するための前提としての支援ですら目に見える形で求めなければならない人たちは、その支援を一種のぜいたく品と認識されてしまいがちです。

もう一つの問題は、少数派の人たちへの支援は、多数派の人たちへの目に見えない支援とは異なり、意識的な「善意」の下で行われることが多いということです。「善意」は、一見よいことのように思えるかもしれません。でも、一回限りのものや短期間のものであればともかく、「善意」を受け続けなければならない状態は、その人の生きる意欲を奪い、本当の意味での自立を阻害してしまう可能性のあるものなのです。だからこそ、少数派の人たちへの支援は、多数派の人たちへのものと同じように基本的には「都合よく日常に隠されて」いる必要があるのです。

大石さんの文章を読んでいると、ユニークな生き方をしている「少数派」の人たちへの共感とあたたかいまなざしを感じます。私が大石さんの文章を好きなのは、そのせいなのかもしれません。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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