18. 「私の経験では…」

私が医師になって7~8年ほどしたころのことです。私は、ある小児病院で非常勤医師として働いていました。一種の研修医のようなものです。

一日の診療が終わるとよく夕方から自主的な勉強会があり、夜遅くまで文献の読み合わせをしたり、診断や治療方針をめぐって同僚や先輩方と議論しあうのが日常でした。比較的自由な立場だった私は、様々な科の勉強会に日替わりで参加していました。

その日はある希少疾患についての勉強会だったのですが、たまたまその疾患の経験があったことからディスカッションの中でコメントをしようと、「私の経験では…」と切り出したそのとき、指導医だったN先生の雷が落ちました。

「お前の経験はどのくらいのものなんだ?世界中に、この診断について知見が蓄積され、論文として発表されている。それを無視して、まず自分の経験からものを言いはじめるのは傲慢だ。『私の経験では』という言葉を使うな!」と。

私は、はっとしました。確かに、医師として、限られた自分の経験だけに頼ることはとても危険です。どんなにキャリアを積んだとしても一個人ができる経験の量や幅は限られています。しかも、同じ経験をしてもそこに何を感じるのか、そこから何を得るのかは、個人の意識や観察眼に左右されてしまいます。無意識のうちに、自分に都合のいいような切り取り方をしてしまっていることもあるでしょう。

医師の仕事にとって、客観性と論理性は最も重要な基本です。どんなに人柄が素晴らしくても、どんなに経験が長くても、客観的な根拠を欠く個人の考えや経験だけに頼ることは重大な誤りにつながる可能性があり、決して許されることではありません。医療とはそんなに底の浅いものではないのです。

もちろん、経験が無意味というわけではありません。十分な知識や論理性を基礎にした経験は、「エビデンス」の紋切り型の理解や、それに基づいた通り一遍の惰性的な判断を防いでくれます。経験があって初めて教科書的な記述の本当の意味に気づくことができる場合もあります。自分の経験したことが素朴な疑問につながり、そこから表面的な理解を超えた洞察に至ることもあるでしょう。そして何より、自分の経験したこと自体は重要な一つの事実であり、今までの知識と自分の経験との間に何らかの矛盾があるときには、経験を無理やり「常識」に当てはめようとするのではなく、その違いの原因や意味を探すべきでしょう。

しかし、これまで積み重ねられてきた知見とそれに基づく考え方には必ず一定の背景と理由があり、それを無視して自分の経験だけを頼りにすることは決してあってはならないことです。むしろ、これまでの知見に対する深い理解があって初めて自分の経験を意味づけることができ、生かすことができるのだといえるでしょう。その意味では、これまでの知見を学ぶことと自分自身の経験は車の両輪のようなものであり、どちらも欠かすことができないと考えることができます。

私のこのような考え方は医療から出発したものでしたが、療育や支援にかかわるようになり、根本的な原則は同じではないかと思うようになりました。「私の経験では…」と口をついて出そうになるとき、いつもN先生に叱責された記憶が頭をよぎります。これからも、狭い自分の経験だけから安易に物事を言おうとしていないか、その意見は客観的な根拠に基づいているか、常に自問しながら実践に携わっていきたいと思っています。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です