13. 「感謝される」支援は二流の支援

医療・福祉・教育といった仕事を選んでいる方の中には、「人の役に立つ仕事をしたい」という気持ちからその道に入った方も少なくないでしょう。医療や福祉はもちろん、教育でも特別支援教育などの分野であればことのほか、「不幸な人のために何かをしてあげたい」「困っている人を助けたい」という純粋な気持ちが強い動機になっていることもあるかもしれません。

障がいにかかわる仕事を始めたころ、おそらく私の中にも同じ気持ちがありました。しかし、仕事を続けていくうちに、私自身はそこに大きな落とし穴が隠れていると感じるようになりました。心のどこかに「感謝される」ことへの期待が潜んでいると、次第に、感謝してくれる人には精いっぱい頑張るけれども、感謝してくれない人にはできればあまり関わりたくない、と思うようになっていきます。そうなれば、結果として提供する支援の質にムラが生まれ、何度か感謝されない体験が続くと仕事を続ける自信と意欲を失ってしまうことにもなりかねません。

支援を本当に必要としている人ほど、感謝の気持ちを抱きにくい状況に置かれていたり、うまく表現できなかったりします。もし、支援者の原動力が感謝してもらうことであるとすれば、本当に必要なところほど支援を届けにくくなるばかりでなく、困難な状況に置かれている人に真剣に向き合おうとする真面目な支援者ほど、仕事を続けていくことが難しくなってしまうかもしれません。

このような経験から、私は、障がいへの支援は感謝されない「あってあたりまえ」のものでなければならないと考えるようになりました。例えれば、電気、ガス、水道、道路といったいわゆるインフラのようなものといってもよいでしょう。先進国に住む人のほとんどは、水道の栓をひねって水が出るたびにいちいち感謝したり、道路を通行するたびにありがたみを実感したりなどといったことはありません。ですから、インフラを支えている人たちの意欲の源は「感謝される」ことではありません。彼らの原動力は、自分たちが世界に冠たる技術力を持って最先端のサービスを提供しているという、強いプロ意識です。事実、日本の水道技術や道路建設・補修の技術は世界最先端のものです。それにもかかわらず、いやそれだからこそ、私たちは断水に文句を言い、道路工事をぼやくのが普通のことになっているのです。

支援を提供することで感謝されることが多いとすれば、残念ながらそれは「あたりまえのもの」になっていないからです。私たちが目指すところは、意識に上らない支援、感謝してくださる方にも、文句ばかりの方にも、何も言わない方にも、等しく提供できる支援です。利用してくださる方の感謝の有無にかかわらず、世界水準の支援を提供していることに誇りを持って仕事をしたい。私自身はそう考えています。

では、どうすれば感謝に頼らずに支援に誇りを持つことができるのでしょうか。その一つの鍵は、客観的、実証的な根拠を持つ支援をすることです。現在、どのような支援の考え方や方略に意味があるのか、様々な側面から検証が進められています。私たちはそれを学び、自分たちの支援が単なる習慣や惰性によるものでない、世界水準の根拠を持つものであることを確認し続けていかなければなりません。もう一つは、私たちの取り組みをできる限り公開し、たくさんの方に見ていただくことです。様々な立場の方の意見を聞き、議論し、参考にしていくことでより良い支援に進化し続ける、これが私たちの目指すもう一つの姿です。

もちろん、支援者の力不足で利用してくださる方の期待に十分応えられないこともあるでしょう。利用してくださる方と支援者との間に、理屈では説明しがたい相性の問題がある場合もあります。ですから、何があっても一人の支援者が必ず支援し続けなければならない、というわけではありません。むしろ、一対一の人間関係に依存しない支援システムや地域のネットワークが必要です。そのような意味で、私たち支援者は個人の支援スキルを高めるだけでなく、支援のシステムづくり、地域の資源づくりについても主体的に考え、かかわっていく必要があります。

おしま地域療育センター、そして私自身が提供している支援は、まだまだ世界水準にはほど遠い状況にあります。しかし、常に学び続け、たくさんの方に見ていただき、批判を謙虚に受け止め、日々改善を模索していくことで、感謝に頼らない支援を目指していきたいと思っています。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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