6. 「療育」とは何か

私の職場では、主に小児期に発症する障がいを対象にした、いわゆる「療育」というサービスを提供しています。療育とは、一般的には発達や社会適応の向上を目的にした個別や少人数の機能訓練・心理指導・プレイグループなどを指します。英語には日本語の「療育」にあたる言葉はなく、あえて言えば"treatment and education"(治療教育)が近いでしょう。

こう書くと一見自明なようですが、実のところ「療育とは一体何なのか?」という問題は、ずっと私を悩ませてきました。医学の世界では、障がいとは、何らかの機能が損なわれた異常な状態のことです。そう考えれば、それをなるべく正常に近づけることが療育の役割ということになります。ところが、いくら「療育」をしても、私が出会った子どもたちは決して「正常」になることがありませんでした。肢体不自由、知的障がい、自閉症。診断の違いこそあれ、どの子どもたちも、結局のところ障がいの根本はずっとそのままだったのです。多少なりとも機能が向上するのだからそれで満足しなさい、という考え方もあるでしょうが、私はなんとなく納得できずにいました。

当時、個人に焦点を当てて障がいを捉える医学モデルは痛烈な批判を浴び、社会と個人との関係性のなかで障がいを定義する社会モデルが注目を集めていました。社会モデルの考え方に基づけば、個人に働きかけるだけでなく、社会の方をその人たちに合わせて変えることで個人の特性に起因する不便さを軽減することが目標になります。WHOも、医学モデルに基づいた国際障がい分類(ICIDH)から社会モデルを取り入れた国際生活機能分類(ICF)に転換したばかりでした。

当初、私は社会モデルが私が感じている矛盾を解決してくれるかもしれないと期待していました。しかし、社会モデルを学んでも、どうにもしっくりきません。障がいを、単なる個人の機能の問題ではなく社会とのかかわりの中で捉えるという考え方は、一見合理的なように思えます。しかし、不便でなければそれでよい、という短絡的な理解の仕方につながりかねないような気がして、私にはどことなく違和感がありました。やはり障がいの医学的な側面、言い換えれば個人的な側面は一種の客観的真実であるという思いも、拭い去ることができなかったのです。おそらく日本の療育現場では多くの医師が私と同じように感じていたのでしょう。国際的にはICFが採用されても、日本の療育現場ではICIDHの考え方も強い影響力を持ち続けました。

そんなとき出会ったのが、障がいの「文化モデル」でした。障がいを単に不便なもの、できる限りない方がいいものとして捉えるのではなく、障がいを含めて丸ごとその人そのものであり、障がいをむしろその人の強みとして捉える文化モデルは、私に大きな影響を与えました。

もちろん、障がいは現実世界では不利な側面の方が強いのも確かです。文化モデルを一種の欺瞞と感じる方もいるでしょう。その意味では、文化モデルは科学的事実というよりも一種の人権思想であり、男女平等や人種差別の撤廃といった思想と相通じるものがあるのです。

障がいモデルに出会い、その考え方を学ぶにつれ、私の中では医学モデル、社会モデル、そして文化モデルのどれが正しいという選択の問題ではなく、この3つの視点の好循環を形成することが療育の役割なのではないかと思うようになっていきました。障がいの医学的な側面を正しく理解することは、特定の障がいをもつ人を理解し、それに基づいたアプローチをするために重要な側面を持ちます。それと同時に、社会の側がそのような特性を持つ人にとってできる限り暮らしやすく、機能を十分に発揮できる場所となっていく必要もあります。そしてなにより、障がいを含めてその人の存在そのものから、家族や私たちを含め、周囲の人たちがよい影響を受けうる状況を作りだすことも、決して欠かすことができません。

医学的な治療や訓練のために機能が向上し、結果として周囲の環境を生かしすくなったり、自己肯定感が向上することもあるでしょう。反対に、社会が暮らしやすい場所になることで様々なサービスにアクセスすることができるようになり、そのことで機能改善につながったり、ひいては家族や周囲の人たちとの関係が改善することもあり得ます。障がい当事者として積極的に活動することで社会の中に居場所が増えていき、そのことが機能向上にもよい影響をもたらすかもしれません。そこには、この3つの視点の好循環があります。

反対に、機能訓練や医療機関への通院が(とりあえず機能を高める効果があったとしても)実際には自己肯定感を損なう結果になっていたり、とおりいっぺんの治療は受けていてもその人なりに力を発揮できる場所がどこにもなかったり、家族関係や周囲の人たちとの良い関係を保つことが本人や家族の努力だけに依存していたりすれば、仮に型どおりのサービスが提供されていたとしても、そこにはこの3つの視点の好循環はありません。それを決して「療育」と呼ぶことはできないでしょう。少なくとも、私自身はそのように考えるようになりました。

私たちの療育センターでは、5つの柱からなるミッションステートメントを策定しています。その中の1つの柱は、この3つの障がいモデルから見たときに、その間に好循環を作り出すことです。なぜなら、それこそが療育の本質だと私たちが考えているからなのです。もちろんいくら高い理想を掲げても、私たち自身が力不足であったり、現実の世界での様々な制約があることも事実です。しかし、私たちはこれからも、一人ひとりの人をよりよく理解し、その人たちが暮らしやすく力を発揮しやすい環境を整え、自己肯定感を高めると同時に周囲とのよい関係を築いていけることを目指して、療育サービスを提供していきたいと考えています。

函館で発達にかかわる診療をしている医師です。

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