発達診療を利用する子どもたちは、状況や場面によって「できたりできなかったり」の差が大きいことがよくあります。たとえば、家では当たり前にできることが外に出るとできなかったり、反対に家では決してやらないけれど外に出ると普通にできたり、といった場合です。お父さんの言うことは聞くのにお母さんの言うことは聞かないとか、特別支援学級だとよくしゃべるのに普通学級では押し黙ったまま、などといった場合もあります。気分や体調、状況によってできたりできなかったりの差が大きい子どももいます。
私の外来では評価の一環としてよく知能検査や発達検査をするのですが、結果を保護者の方や学校の先生にご説明すると、「家(学校)ではできるんです」とか「本当はできるのに、すぐできないって言うんです」といった意見をいただくことがあります。反対に、子どもががんばって検査に取り組んでいる姿を見て「家(学校)では全然やらないのに、外だとできるんです…」とため息交じりに言われることもあります。ときには、できるのかできないのか、立場の違う人の間で議論になってしまったり、できるくせにやらない…という非難めいた調子になってしまう場合もあったりします。
私たちは、できることはいつでもどこでもできるはず(やるべきだ)、と思いがちです。確かに、発達というものを表面的に捉えれば「何歳で何ができる」ことの集まりに見えるかもしれません。しかし実際には、あることが発達的に可能になっても、それがいつでもどこでもコンスタントにできる、ということはまた別の発達的な機能だと考えたほうがいいのです。乳児は、基本的には自分の気持ちのままに行動します。おなかがすけば泣くし、ところかまわず排泄します。状況や相手の期待なんてお構いなしです。でも、発達するにしたがって、いつ、どこでも自分の好きなことができるわけではないことや、特定の場面では自分が何を期待されているのかを察知して、あまりやりたくないことであっても期待に応えたり、やりたいことでも我慢するようになっていきます。気分のままに行動するよりも、今はちょっとがんばっておいた方が長い目で見たら得だ、と理解できるようにもなっていきます。こうして、できることが増えていくだけでなく、「できたりできなかったり」の差が次第に少なくなっていきます。
発達に偏りを持つ子どもたちは、この「できたりできなかったり」の差を少なくするための脳機能、たとえば、周囲の状況から自分が何を期待されているのかを察知したり、ちょっとがんばったほうが結局は得だ、と直感的に理解することなどにも未熟さを持っていることが多いのです。だから、結果として「できたりできなかったり」のばらつきが大きくなってしまいがちです。
いろいろな場面で安定して力を発揮できる子どもへの発達的な援助は、できることを増やしていくことができれば十分かもしれません。でも、「できたりできなかったり」の差が大きい子どもの場合には、できることを単純に増やしていくだけでは不十分です。このような子どもに対しては、できることを増やしていくことと、「できたりできなかったり」の差が少なくなるような、できるかぎり力を発揮しやすい工夫をすることは、いわば発達支援にとっての車の両輪です。子ども自身が、どんな工夫をすると自分は力を発揮しやすいのか、ということ自体を学び、その工夫を自分でできるようになっていったり、どんな人に助けてもらうとその工夫を手に入れることができるのかを知っていけると、より理想的です。
どんな工夫が役立つのかには個人差があります。一律にこうすればいい、という方法があるわけではありません。ですから、私たちが子どもたちの評価を行うときには、何ができて何ができないのか、といった一般的な評価だけでなく、どうしたら「できたりできなかったり」の差を少なくし、力を発揮しやすくすることができるのか、ということも合わせて評価するようにしています。そのときには、余計な刺激を減らして集中しやすくする、一目見れば、いつ、何をすればいいかがわかるようにする、どのくらいがんばればいいのか終わりが見えるようにする、好きなものを活用して意欲を持てるようにする…といった、発達障がいの子どもたちのために蓄積されてきた工夫の宝庫がヒントになります。仮に発達障がいの診断に至らなくても、個別の評価に基づいたこのような工夫が子どもたちの発達にとって役立つことは十分にあり得ることです。
ただし、できるはずのことができないときには、まずはできないことを受け入れた方がいい場合もあります。ポイントは、自発的に意欲を持って取り組めているかどうかという点です。もし、見かけ上「できたりできなかったり」の差が少ないように見えても、それが自発性に基づかない強制されたものであったり、大人の顔色をうかがいながらのものであったり、不安でいっぱいな中で取り組んでいたり、ということがあれば、むしろ「できない」と表現できた方がいい場合もあるのです。そのような場合には、どうにかしてがんばらせるよりも、いったんはできないことを受け入れた後で、なぜできるはずのことができないのかをもう一度振り返り、その原因を取り除くところから始めた方がいいかもしれません。
実は、私たち自身も、「できたりできなかったり」の差が表れやすい場面があります。職場では普通にできるようなことでも、家では「そんなこといちいちやってられっか」となってしまうことはよくあるでしょう。外では誰にでもにこやかに接している人が(別に家族のことが嫌いでなくても)家では仏頂面になることがあったり、職場では几帳面に整理整頓している人が家では結構だらしなかったり、などということは決して珍しくありません。ただ、あまり違和感がない程度に収められるように私たちの脳が働いているから問題にならないだけのことです。そう考えれば、ある程度できたりできなかったりの差があるということは、できることは必ずやらなければ気が済まない、とか、できるはずという周囲の期待には必ず応えようとする、というよりもむしろ健康的なことなのかもしれません。
目の前のお子さんが、できる?できない?どちらなの?と悩むときには、そのどちらが正しいのかを決めるよりも、どうして差が大きくなるのか、どうしたら差を少なくできるのか、そして本当に差を少なくしなければいけないのかについても、もう一度よく考えてみたほうがよさそうです。