私の診療で保護者の方や学校の先生方からよくある質問の一つは、「この子、すぐ『わすれた』って言うんです。でも、よく聞いてみるとちゃんと覚えてたりするんです。なんでウソをつくんでしょう?」というものです。私自身も、お子さんに質問をすると、「わすれた」と言われることがあります。確かに本当に忘れているのではなさそうなのですが、なぜこのような答えが返ってくるのでしょうか。
その答えを考える前に、反対の状況、つまり子どもたちが比較的よく答えられる質問について考えてみましょう。たぶん、一番よく答えることができるのは、好きなものについてです。学校のことを聞いてもなかなか答えられないような子どもたちでも、好きなアニメのキャラクターについては、質問するととても雄弁に話しだしたりします。その子どもたちの頭の中では、きっとアニメに関する情報はたくさん入っていて、しかもその子どもなりの整理のされ方をしているのに違いありません。以前私がお会いしていたあるお子さんは、頭の中に空想の駅があって、100以上ものプラットホームから様々な場所へ列車が出発していたのですが、その行先や列車同士の連結のしかたは驚くほど一貫していたのです。
私たちが質問に答えるときには、答えるための材料が頭の中にそろっていて、それを質問に沿った形に整理し直し、その上で言語という形で答えなければなりません。結構大変なプロセスです。内容が話したいことで、比較的整理がされていて、話す元気があるときであれば、結構スムーズに答えられるでしょう。でも、この中のどれか一つでも欠けると、途端にうまく話せなくなります。あまり興味のないことだったり、知識が質問に対して足りないときはもちろん、なんだかうまく整理がつかないときや、疲れていて考えたり言葉にしたりするのが億劫なときもあるでしょう。
私たちが出来事を記憶するときには、映像的な記憶とともにその一部を言語化し、ある程度時系列や因果関係に沿って整理した状態になっていることが多いでしょう。でも、私がお会いする発達診療を利用するような子どもたちの記憶は、どうやらそれほど整理されていないことが多いようです。スクリーンショットのようなあまり言語化されていない映像的で断片的な記憶が、時系列や因果関係とは無関係に頭の中にランダムに入ったままになっていることもあるようです。そういう、言語化も整理もされていない断片的な記憶をもとに、やっぱり不得意な言葉に変換して話すというのは相当大変な作業です。ややもすると支離滅裂になりかねません。一生懸命話しても「それちがうでしょ!」と言われてしまうことだってあるでしょう。
そういうときには、「わすれた」というのは便利な言葉です。どうせがんばって話したって注意や指導こそされ、いいことがないのです。とりあえず「わすれた」と言っておけば、ちょっとは嫌な顔をされるかもしれませんが、無駄な労力をかける分を節約できます。こうやって、どんな場面でもユニバーサルに使える「わすれた」という言葉を便利に使うようになっていくのかもしれないな、と子どもたちと話をしていると感じることがあるのです。
逆にいえば、子どもたちのコミュニケーション能力を上げるために大切なことは、正しくしゃべることを練習するよりも、しゃべったことで「何かいいことがあった」という経験を積むことなのに違いありません。いちばん簡単なのは、要求を聞いてもらえた、好きなことを思いっきりしゃべれて楽しかった、否定されずにただ聞いてもらえ共感してもらった、という場合の三つでしょう。反対に、しゃべることをやたらに促されたり、問い詰められたり、しゃべった結果何かを修正されたり注意されたりという体験は、よほどのことがない限りコミュニケーションの意欲をそぐことはあってもけっしてコミュニケーション能力を高めることはないような気がします。
コミュニケーションの力を引き出すためには、もしかするとしゃべる必要もないかもしれません。私の外来を利用してくださっている方の中には、私の前ではほとんどしゃべれなくても受診日前には必ず質問内容をメールを送ってきてくださる方がいます。中には、英語好きで日本人なのに英語でメールを下さる方までいます。そういうときには、ほとんどしゃべれない姿が想像できないほど、生き生きとした文章のやり取りが可能なのです。
コミュニケーションにとって最も大切なのは、知っている言葉や話せる言葉の数ではありません。相手とコミュニケーションを取りたい、という意欲です。もしそのお子さんがすぐに「わすれた」とばかり言うようであれば、お子さんを質問攻めにすることによってコミュニケーションの芽を摘んでいないか、私たちのほうがもう一度考え直す必要があるのかもしれません。